伊藤矯正歯科クリニック 伊藤智恵
最近、歯科診療の良否をあげつらう週刊誌記事が散見される。その論調のなかに「保険診療は出来高払い方式なので、一人当たりの治療時間が限定され、安く早く治療することが悪い治療の原因。しっかりした治療を受けたい人は自由診療でじっくり時間をかけて患者と向き合う歯科医を選ぶべき」ということが混じることに、一種の驚きを禁じ得ない。以前の「国民皆保険だからどこで治療をしても質の高い治療が安く受けられるのだ。にもかかわらずこの歯科医師はこれだけ酷いことをして悪徳だ」という論調が影を潜め、国民の認識もまた「保険診療では必ずしもいい治療が受けられない」と確実に変化してきたことの証であろう。
私自身は矯正歯科専門開業なので、その治療の大部分は自由診療だ。だから、「自由診療だとじっくり時間をかけて患者と向き合うはずだ」という思い込みは「保険診療はどこで受けてもいい治療であたりまえ」や「保険診療だと良くない治療」などの思い込みと同様の一面的な理解だとは思う。自由診療にまつわるトラブルの相談が消費者庁に多く寄せられ、ホワイトニング等一部の歯科医療が特商法対象に目されている現実を見れば、短絡的な捉え方は好ましくはない。しかし、自由診療で勝負することは、知識・技術・マインドどれをとってもかなり高い質を提供し、かつ、リーズナブルだと思わせなければならないことなので、命がけで治療の質向上に取り組むだけの価値があり、それに共感する国民が増えてきていることは素直に喜ばしいことだと思う。
そこで、メインテナンスである。
多くの国民が、自分の口腔内のみならず全身の健康を向上させ、それを維持し、生涯自分の歯で食事し、会話し、笑いたいと願っている。そういう取り組みは、現行保険制度の中で行えるだろうか?
確かに、疾患に対して適切な診断と処置を行うことで、疾患は治癒に導ける。しかし、常在菌と戦う齲蝕や歯周病に、本当の治癒の概念は当てはまるだろうか。リスクコントロールが不十分だと再発することは明らかだ。だから、一連の処置で一旦治癒したとカルテ上には記載されるが、やはり再発したので継続的に(再度)保険診療にてコントロールし続けるのだということが、現行保険制度を使ってメインテナンスを行う理屈かもしれない。でもその理屈、患者にとってはいかがなものだろう。努力して治ったと言われたのにまた、再発しているから保険で疾患治療を受けるという説明に、無力感・徒労感を覚えないだろうか。こんなに良好な状態の口腔なのに保険制度を使うために再発したとするのは、ごまかしと受け取らないだろうか。
実は最近、保険の個別指導を受けた。指摘事項の中で最も腑に落ちなかったものは、
である。つまり、
1.は、保険診療のルールで行うSRPとは汚染セメント質を除去し、歯根面を滑沢にすることであるから、歯周デブライドメント等、根面を滑沢にすることを目的としない施術は保険診療として認めない、という意味だ。長期予後に基づく国際的な療法選択の変遷傾向やエビデンスは関係なく、保険というルールで定められていることのみをルール通りに行うことが保険診療なのであって、それから外れることはたとえエビデンスがあったとしても、長期予後が良好であったとしても、保険請求してはいけないと指導された。
2.は、顎変形症等の保険診療として実施する歯科矯正患者の歯周治療は、矯正歯科治療の一環として行うべきで、歯周検査、画像診断、歯周処置などは歯周疾患に対する療法ではなく矯正歯科管理のなかで行うべきである、というものだ。矯正歯科治療は全顎治療として行うのであるから、矯正歯科治療中はもちろん矯正歯科治療前後に齲蝕や歯周病をコントロールするのは当然のことだ、だから歯周治療も齲蝕治療も歯科矯正治療の一環であるので、歯周病病名で保険請求しないでほしいという指導だ。もちろん、保険外診療として実施する矯正歯科治療患者の歯周治療や齲蝕治療は、保険請求を一切認めない。
国民はこの指導を納得し、同意するだろうか。もちろん保険点数は大幅に減少するので安くなる。しかし、効果的な療法は行えず、必要な処置も請求不可だとすると、健康を守り育てる歯科治療を健康保険のルールの中では行えないのであるから、結果的に国民の健康は守られないことになる。それを是とするのだろうか。
この経験を経て私は、今まで一部のみであった自費メインテナンスを基本的に全ての患者を対象に適用することとした。当初は、患者からの反発が多いかと懸念したが、何のトラブルも抵抗もなく受け入れてくれた。「保険診療でなくても、健康を守るほうが大切だから」「歯周病がある口に戻るのはいやだから」と応えてくれた。私の患者たちは、保険適用で適切な施術に制限を受けるよりも、健康を確実に守る医療に正当な対価を払う方が価値があると理解していたわけである。
矯正歯科治療で得られることは、審美性の向上など多くが挙げられる。しかし、矯正歯科治療の真の目的は、壮年期・老年期を通じて健康な状態を維持しやすく、健康で美しく楽しい人生を全うできる基盤という、「生きる力」のプラスとなるものを築くものだと言える。矯正歯科治療を行い、高い健康観と健康な口腔の基盤を獲得し、それを適切にメインテナンスすることで、健康な状態を生涯維持することが可能だ。メインテナンスの価値に気づくこともまた、矯正歯科治療を主体とした「口腔成育」の獲得目標かもしれない。
ほんとうに国民が求める歯科医療とは、適切な診断治療とその後のメインテナンスで生涯健康な状態を維持することであろう。そのためには保険ルール内での不十分な対応ではなく、正当な対価で良質な自費メインテナンスが必要だ。そういう理解はすでに、国民に根付いているのではなかろうか。私たち歯科医師は、もっと自分の患者を、国民を、信頼していいのだと思う。